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60代派遣が「使えない」と言われた日―――契約終了の危機から這い上がった私の物語

この物語を書いた人

田中恵子(仮名・62歳)
経理一筋30年 | 派遣歴8年 | あの日、会議室で「もう終わりだ」と思った。でも、終わらなかった。


プロローグ:世界が止まった3月の午後

「田中さん、ちょっとお時間よろしいでしょうか」

2024年3月15日、午後3時52分。

その声を聞いた瞬間、私の背中を冷たい何かが這い上がっていくのを感じました。

会議室へ向かう廊下。10メートルほどの距離が、まるで100メートルに感じられます。蛍光灯の白い光が、やけに眩しい。窓の外では、桜の蕾がまだ固く閉じたまま、春を待っていました。

――ああ、来た。ついに来てしまった…――

会議室のドアノブが、手のひらに冷たい。

ドアを閉める音。カチャリ。その金属音が、まるで牢獄の扉が閉まるように響きました。

「単刀直入に申し上げますと…」

若い正社員の上司、鈴木主任(32歳)の声。彼は私の目を見ています。逃げずに、真っ直ぐに。

「来月の契約更新なんですが…現状のパフォーマンスですと、少し…難しいかもしれません」

――ああ。――

頭の中で、何かが音を立てて崩れていきました。

「派遣会社の方とも相談していまして…できれば、その…もう少し若い方に」

「若い方」

その4文字が、鋭利なナイフのように、私の胸に深く突き刺さります。

会議室のテーブルの木目が、ぼやけて見えました。手のひらが汗ばんでいます。テーブルの冷たい人工木の感触だけが、やけに生々しい。

窓の外では、若い派遣社員たちが笑いながらランチから戻ってくるのが見えます。彼女たちのポニーテールが、春風に揺れています。

――私は、もう「若い方」じゃないんだ。62歳。ババアなんだ。――

「何か…ご質問は?」

鈴木主任の声が、遠くから聞こえます。

「…いえ。大丈夫です」

自分でも驚くほど、平静な声が出ました。

でも、立ち上がろうとした時、膝がほんの少し震えているのがわかりました。


第一章:絶望の帰り道で見た光

デスクに戻れなかった私

会議室を出ても、デスクに戻る気力がありませんでした。

トイレに逃げ込みます。個室のドアを閉めて、便座に座り込みました。

――終わった。私、終わった。――

手で顔を覆います。誰にも見られたくない。この惨めさを。

トイレの換気扇の、低い唸り声。遠くで誰かが水を流す音。蛍光灯のかすかなノイズ。すべての音が、やけに大きく聞こえました。

11ヶ月と23日。

この職場で働いた日々が、走馬灯のように頭の中を駆け巡ります。

  • 新しく導入されたチャットツール(Slack)で、送信先を間違えて全社に個人情報を誤送信してしまった日。顔から血の気が引いて、手が震えた。
  • 「田中さん、それ、もう古いやり方ですよ」と25歳の若手に笑われた時。耳が熱くなって、下を向いた。
  • Web会議で音声がつながらず、5分間も全員を待たせた時。「すみません、すみません…」と繰り返す自分の声が情けなくて、消えてしまいたかった。

――良かれと思って言った「改善提案」も、全部ウザがられてたんだ…――

「前の会社では、このExcelマクロを使って効率化してましたよ」

そう言った時の、若い社員たちの微妙な沈黙。今ならわかります。あれは「ありがたい」じゃなくて、「めんどくさい」だった。

デスクの引き出しに、娘が描いてくれた似顔絵のメモが入っています。「ママ、お仕事がんばってね」。娘は今、育休中。孫の世話で大変そう。

――このままじゃ、家族に顔向けできない…――

涙が出そうになって、慌てて目を閉じました。

トイレの個室の、白いタイルの壁。冷たくて、無機質で、何も答えてくれない。

――もう終わりなのかな…私…――


鏡の中の老女

顔を洗おうと、洗面台の前に立ちました。

鏡に映る自分の顔。

――…老けたな。――

目の下のたるみ。ほうれい線。白髪染めが少し色落ちして、生え際が白くなっています。

いつから、こんなに老けたんだろう。

その時、トイレのドアが開く音がしました。

「あら、田中さん。お疲れ様」

明るい声。

振り向くと、隣の経理部で働く佐藤さん(64歳)が、いつもの笑顔で立っていました。

彼女も私と同じ60代。それどころか、私より2歳も年上です。

なのに。

佐藤さんの顔は、不思議と「老け」を感じさせません。目元にシワはあるけれど、笑うと目が細くなって、少女のように見える。髪はショートカットで、清潔感がある。

そして何より。

彼女は、もうこの職場で3年も契約を更新し続けていました。

若い社員たちと楽しそうに談笑し、時には30代の課長から「佐藤さん、これどう思います?」と意見を求められている姿を、何度も見ています。

――なぜ…? 私と佐藤さんの、一体何が違うの?――

洗面台の水が流れる音。彼女の軽やかな足音。

疑問が、頭の中でぐるぐる回り始めました。

――年齢のせいじゃない。「もう年だから」って…それは、言い訳なんじゃないか?――

鏡の中の自分と、隣で手を洗う佐藤さん。

2メートルも離れていないのに、まるで別世界の住人のように見えました。

――私、今まで何を見てきたんだろう。答えは、こんなに近くにあったのに…――

その瞬間、私の中で何かが変わりました。

絶望が、小さな希望に変わる瞬間。

――諦めるのは、まだ早い。――


第二章:観察の7日間

契約終了まで、残り28日。

私は、佐藤さんという「答え」を、徹底的に観察することにしました。

まるでストーカーのように。


観察1日目:朝の挨拶が違った

3月16日、午前8時47分。

いつもより13分早く出社しました。

佐藤さんは、私より先に来ていました。デスクで何かメモを書いています。

そして、午前9時ちょうど。

オフィスのドアが開いて、若手社員の高橋くん(25歳)が入ってきました。

「おはようございまーす」

ぼそっとした声。彼はいつも、眠そうです。

その瞬間。

「おはようございます、高橋さん! 今日も良い天気ですね!」

佐藤さんの声が、オフィスに響きました。

――え…?――

驚いたのは、その声のトーンでした。

明るい。朗らか。まるで、春の陽だまりのような温かさがある。

高橋くんの顔が、パッと明るくなりました。

「あ、佐藤さん、おはようございます! 今日も早いっすね!」

そのやり取りを見て、私はハッとしました。

――私、今まで…挨拶、してたっけ?――

思い返してみると、私はいつも黙ってデスクに座り、黙々とパソコンを立ち上げていました。

「おはようございます」

言っていたかもしれない。でも、それは義務的な、小さな声だった。相手の目を見ていなかった。

佐藤さんは、誰よりも先に、誰よりも明るく挨拶していました。

それだけで、オフィスの空気が変わる。

――これか…――

小さなメモ帳を取り出して、走り書きしました。

「朝一番、明るく挨拶する。相手の名前を呼ぶ。目を見る」


観察2日目:敬語の使い方が違った

3月17日、午前10時22分。

鈴木主任が、佐藤さんのデスクに来ました。

「佐藤さん、この経費精算の件なんですけど、ちょっと確認させてもらっていいですか?」

「はい、もちろんです。鈴木主任、どうぞこちらへ」

――「鈴木主任」…?――

私はハッとしました。

佐藤さんは、30歳も年下の鈴木さんを、決して「鈴木くん」とは呼びません。

必ず「鈴木主任」あるいは「鈴木さん」

そして、敬語を一切崩さない。

私はどうだったか。

思い返してみると、私は無意識に「鈴木くん」と呼んでいました。「そうですか」という冷たい返事。時には、ため息をつきながら。

――「年下なのに」って…内心バカにしてたんだ、私…――

顔が熱くなりました。恥ずかしさと、後悔で。

メモ帳に書き足します。

「年下でも『さん』『主任』と呼ぶ。敬語を崩さない。相手を立てる」


観察3日目:「わからない」を隠さなかった

3月18日、午後2時15分。

休憩室で、衝撃的な光景を目撃しました。

佐藤さんが、25歳の若手女性社員、山田さんの隣に座っています。

そして、佐藤さんのスマホ画面を、二人で覗き込んでいました。

「山田さん、ごめんね。このSlackのスタンプ機能、どうやって使うの? さっき送られてきて、返したいんだけど…」

佐藤さんが、屈託なく笑いながら聞いています。

「あ、これですか? 簡単ですよ! ここを長押しして…」

山田さんが、丁寧に教えています。

「わあ、できた! ありがとう、山田さん! あなた天才ね!」

佐藤さんの嬉しそうな声。山田さんも、嬉しそうに笑っています。

――え…? 佐藤さん、Slackのスタンプ、知らなかったの…?――

私は、衝撃を受けました。

佐藤さんほどのベテランでも、「わからないこと」がある。

でも、彼女は隠さない

堂々と、若手に頭を下げて、教えてもらう。

そして、大げさなくらい感謝する。

――私、逆だった…――

私は、「こんなことも知らないのか」と思われるのが怖くて、わからないことを質問できませんでした。

結局、一人で悩んで、ミスして、さらに評価を下げる。

悪循環。

――プライドなんて、何の役にも立たなかった…――

メモ帳に、震える手で書きました。

「わからないことは、素直に聞く。隠さない。感謝する」


観察4日目:「経験」を押し付けなかった

3月19日、午前11時08分。

鈴木主任が、佐藤さんに相談していました。

「佐藤さん、この請求書の処理なんですけど、ちょっと変則的で…どう処理すればいいと思います?」

佐藤さんは、じっくりと資料を見ていました。

そして、ノートパソコンを開いて、何かを打ち込んでいます。

5分後。

「鈴木主任、もしよろしければ…こういう方法も試算してみたんですが、ご参考までに」

佐藤さんが、プリントアウトした資料を差し出しました。

「おお、これはわかりやすい! ありがとうございます、佐藤さん!」

鈴木主任の嬉しそうな顔。

――え…? 佐藤さん、「前の会社では〜」って言わなかった…――

私はいつも、「私の経験では〜」「前の会社ではこうしてました」と、口を出していました。

でも、佐藤さんは違う。

まず、資料を作る。そして、「ご参考までに」と添える。

最終的な判断は、相手に委ねる。

――押し付けてたんだ、私…――

メモ帳に書きました。

「経験は、資料にして提案する。『ご参考までに』と添える。判断は相手に委ねる」


観察5日目:小さな気配りが違った

3月20日、午後4時42分。

佐藤さんが、給湯室でコーヒーを淹れていました。

彼女は、自分のカップを洗った後、シンクもさっと拭いています。

そして、ゴミ箱の近くに落ちていた小さな紙くずを、さりげなく拾って捨てました。

誰も見ていない。でも、彼女はやっている。

――私、自分の仕事だけで手一杯だった…――

佐藤さんは、技術だけでなく、職場の「空気」もケアしていました。

メモ帳に書きました。

「誰も見ていなくても、小さな気配りをする。職場を少しだけ良くする」


観察7日目:私の決意

3月22日、日曜日。

一週間の観察を終えて、私は自宅のダイニングテーブルで、メモ帳を広げていました。

書き出した「佐藤さんの習慣」は、15項目。

どれも、特別な技術ではありません。

誰でもできる、小さなこと。

でも、私はやってこなかった。

――「もう年だから」って言い訳して、変わることから逃げてたんだ…――

窓の外では、桜の蕾が少しふくらんできていました。

もうすぐ春。

――私も、変われるかな…――

メモ帳の最後のページに、大きく書きました。

「残り21日。全部、捨てる。プライドも、見栄も、全部」


第三章:変化の21日間

Day 1:明るい挨拶、できなかった

3月23日、月曜日。午前8時50分。

いつもより20分早く出社しました。

デスクに座って、深呼吸。

――大丈夫。挨拶するだけ。明るく。――

午前9時。

ドアが開いて、高橋くんが入ってきました。

「おは…」

喉が詰まりました。

――言えない…恥ずかしい…今更こんな明るい声出したら、変に思われる…――

結局、小さな声で「おはようございます」とだけ言って、すぐにパソコンに目を落としました。

高橋くんは、気づいたのか気づかないのか、無言でデスクに向かいました。

――ダメだ…私…――

自己嫌悪で、手が震えました。


Day 3:「承知いたしました」を言ってみた

3月25日、水曜日。午前10時18分。

鈴木主任が、私のデスクに来ました。

「田中さん、この経費精算、今日中にお願いできますか?」

いつもなら、「わかりました」と冷たく答えていた。

でも、今日は違う。

「はい、承知いたしました

そう答えた瞬間、鈴木主任の顔が、ほんの少し柔らかくなった気がしました。

「ありがとうございます」

彼はそう言って、去っていきました。

――たったこれだけで…?――

胸が、少しだけ軽くなりました。


Day 7:初めて「教えてください」と言えた日

3月29日、日曜日を挟んで金曜日。午後2時05分。

Slackで、新しい機能が追加されていました。

「リアクション機能が使えるようになりました」

――わからない…でも、聞けない…――

いつもの私なら、ここで諦めていた。

でも、今日は違う。

隣のデスクの山田さん(25歳)に、声をかけました。

「あの…山田さん…」

声が震えています。

「はい?」

山田さんが、振り向きました。

「ごめんなさい…このSlackの新しい機能、ちょっと…教えてくれる?」

――言えた…!――

山田さんの顔が、パッと明るくなりました。

「あ、全然いいですよ! 簡単ですよ、ここを押して…」

彼女は、丁寧に教えてくれました。

「ありがとう! 助かったわ! あなた、本当に親切ね!」

私が大げさに感謝すると、山田さんは嬉しそうに笑いました。

「いえいえ、いつでも聞いてくださいね!」

――こんなに簡単だったんだ…――

帰り道、桜が咲き始めていました。

薄いピンクの花びら。春の匂い。

――私も、少しずつ…変われてる…?――


Day 14:初めて資料で提案した日

4月5日、次の週の金曜日。午前11時32分。

鈴木主任から、相談がありました。

「田中さん、この請求書処理、ちょっと変則的で困ってるんですが…何かアイデアありますか?」

いつもなら、ここで「前の会社では〜」と口を出していた。

でも、今日は違う。

「少し、お時間いただけますか? 試算してみます」

そう答えて、1時間かけてExcelで資料を作りました。

――見やすく、わかりやすく…――

午後1時15分。

資料を持って、鈴木主任のデスクへ。

「鈴木主任、もしよろしければ…こういう方法も試算してみたんですが、ご参考までに。最終的なご判断は、お任せします」

資料を差し出しました。

鈴木主任は、じっくりと資料を見ていました。

そして。

「田中さん…これ、すごくわかりやすいです。この視点、僕にはありませんでした

彼は、笑顔で言いました。

「採用させてください。ありがとうございます」

――認めてもらえた…!――

涙が出そうになって、慌てて下を向きました。

「いえ、こちらこそ…」

そう答えるのが精一杯でした。


Day 21:最後の日、桜が満開だった

4月12日、金曜日。午後3時48分。

契約更新の判定日。

再び、会議室に呼ばれました。

廊下を歩きながら、心臓がバクバクと鳴っています。

窓の外では、桜が満開でした。風が吹いて、花びらが舞っています。

――お願い…もう一度だけ、チャンスをください…――

会議室のドア。

ノブを握る手が、汗ばんでいます。

ドアを開けました。


第四章:桜の下で聞いた言葉

「田中さん、座ってください」

鈴木主任の声。

でも、いつもと違う。柔らかい。

私は、椅子に座りました。

「田中さん。この1ヶ月…本当に、すごく変わられましたね」

――え…?――

顔を上げると、鈴木主任が笑っていました。

優しい笑顔。

「正直、驚いています。特に、新しいSlackの機能、いつの間にかマスターされていて。それに、先日の業務改善の提案資料…素晴らしかったです」

「あの視点は、僕にはありませんでした」

彼は、そう言って、深々と頭を下げました。

「先日の『若い方に変更』という話…あれは、全面的に撤回させてください

――撤回…?――

涙が、溢れてきました。止められません。

「田中さん、来期も…いえ、これからも、ぜひウチのチームで力を貸していただけませんか?」

「はい…はい、喜んで…!」

答える声は、震えていました。

会議室を出た後、トイレに駆け込みました。

個室で、声を殺して泣きました。

嬉しさと、安堵と、「やっと認めてもらえた」という、言葉にできない感情が、一気に溢れ出しました。

3週間前、同じトイレの個室で絶望に打ちひしがれていた自分。

――あの時、諦めなくてよかった…――


エピローグ:桜が散る頃

4月15日、月曜日。午前9時。

新しい週が始まりました。

オフィスのドアが開いて、高橋くんが入ってきました。

「おはようございまーす」

いつもの眠そうな声。

私は、大きく息を吸って。

「おはようございます、高橋さん! 今週もよろしくお願いします!」

明るく、笑顔で、言いました。

高橋くんの顔が、パッと明るくなりました。

「あ、田中さん、おはようございます! こちらこそ、よろしくお願いします!」

――これでいいんだ。これが、私の新しいスタート。――

窓の外では、桜の花びらが風に舞って、空に消えていきました。

散る桜。

でも、来年また咲く。

――60代は、終わりじゃない。新しい始まり。――

デスクに座って、パソコンを立ち上げます。

今日も、一日が始まります。


――変わることをやめたら、そこで終わり。佐藤さんが言っていた言葉が、今ならわかる。――

――私は、まだ終わらない。――


あとがき:この物語を読んでくれたあなたへ

これは、私の物語です。

統計データも、専門家の意見も、ありません。

ただ、一人の62歳の女性が、絶望から這い上がった21日間の記録です。

もしあなたが今、私と同じように「もう年だから」と言い訳しながら、変わることから逃げているなら。

もしあなたが今、「使えない」というレッテルに苦しんでいるなら。

この物語を読んで、何かを感じ取ってくれたら嬉しいです。

私は、何も教えられません。

ただ、私の物語を、あなたに贈ります。

桜は、毎年散ります。

でも、毎年また咲きます。

あなたの「春」も、きっとまた来ます。